カンボジア復興プロジェクトリーダーに聞く


配属されたのは、上司一人私一人の部署だった。

コマツに入社したのは1990年です。最初は建設機械の研究開発部門に配属されました。その中で地雷除去作業を支援する機材の開発に携わっていたのですが、建機を応用して平和に貢献する機材に高い興味を持ちました。そして15年ほど前、地雷除去を専業にする部署を立ち上げることになったんです。上司一人と、私一人。建設機械を活用した社会貢献ができるので、これはやるべきだと思いましたね。


初めてのカンボジア。初めての地雷原。

最初にカンボジアに行ったのは、1998年でした。機材の実証実験をするには、現地の地雷原に入る必要がありました。当時はカンボジア内戦が終わったあとなので、人々の笑顔が少なく、食べるものにも困るような人が大勢いて大変な状況だと肌で感じました。地雷原に足を踏み入れたときは不安を覚えましたね。当時は手作業で地雷を探していたんです。なんでそんなことを人間がやらなきゃならないんだろうと思いました。耐え難い暑さの中、膨大な時間がかかり、命の危険も伴います。それは機械でやればいいんです。地面と格闘する技術を持つコマツにしかできないと感じていました。

現地の人に教える、ということ。

私たちの仕事は、まず現地の人々に対人地雷除去機の使い方やメンテナンス方法などを教えることでした。初めは苦労の連続でしたが、根気よく教えていると、現地のエンジニアが、「これは俺の仕事だ」と、自覚と責任を持ってくれるんです。5年10年かかりましたけど、嬉しかったですね。国というのは、こうやって人が成長して、どんどん良くなっていくんだなと思いました。協力してくれたJMAS(日本地雷処理を支援する会)の存在も大きかったです。地雷除去の知識が豊富で、復興に携わった経験も多い。現地ではCMAC(カンボジア地雷処理センター)の協力も欠かせませんでした。一緒に歩んできた歴史が、今でも大きな支えになっています。


あのときの少年が、大学生になっていた。

私たちの仕事は、地雷原を調査して、地雷を除去したあと道路や学校、そして農地をつくり復興させることです。そんなことを地道に続けていると、10年以上前に建てた学校の生徒さんが、大学生になっているんです。これは驚きました。地雷原のあったところから、よく大学に通えるようになったな、と。親御さんと話をすると、彼らがいかに大変な思いをしたかがわかるんです。戦争の中を生き抜くことに精一杯で、大学なんて夢にも思わなかった。やっと平和になって、子どもが勉強を頑張っている。よし、それなら貧しくても、なんとしてでも大学に行かせてやろう、と。もちろん子どももそんな親の姿を見ているんです。だから本当に一生懸命、働きながら勉強しているんですね。


人々の生き方を変えるかもしれない。

このプロジェクトに携わった15年を振り返ると、「いったい自分は何の仕事をしてるのか?」と思うことがあります。しかし復興したコミュニティで、人々のいきいきした姿を見ていると、無形の価値を生み出しているのかもしれないな、と思うようになりました。「自分たちの仕事は、人々の生き方を変えるかもしれない」。これはJMASのある人が言っていたのですが、現地にいるとよくわかるんです。地雷を除去することで土地が安全になり、道路ができる。そして人が集まるようになると、みんなの顔つきが本当に変わってくるんですね。

コマツにしかできない仕事を、これからも。

道路をつくると、まず電柱が立ちます。そうすると電気が通って、人々が生活できるようになるんです。一番最初に必要なインフラを整備できるのは、やはり建機の力だと思うんですね。今は社会貢献の一環として、お米の収穫量を増やすための農業支援ですとか、大学生を支援する奨学金制度なども考えています。

生きる場所をつくること。

昔、上司に言われたんです。1年かけてやる仕事は1年分の価値しかない。10年かけてやった仕事は10年分の価値があるんだ、と。私たちはプロとして、責任を持たなければなりません。仕事を始めて、続けて、終わらせること。やるんだったらしっかりやろう、と。だからもし後輩が入ってきたら、「この仕事、好きか?」って聞きますね。好きこそものの上手なれ。現場が好きな人が向いているんじゃないですか。本当にそれが大事だとなったら、しっかりやれ、と背中を押してくれる。それがコマツらしさだと思います。